8月に入り、平日に遠方のお盆をお参り。本日より、ご近所での本格的お盆参りに突入。
我が家、我が寺?のしきたり、「1年生からお盆参りを手伝う」に則り、昨年、近場のお盆経デビューを果たした息子。
2年生になったので、昨年は1日だけだったお参りを少しずつ増やす。一人だけでお参りするのは3年生からにしようと思っているので、今年までは私の担当エリアで、毎日最初の10件くらいを一緒に参る。今朝は歩いて回れる地区なので、本堂前にてご本尊と親鸞さまの像に合掌して出発。
僕自身もいろいろな思い出がある、幼少期の盆。
足はとにかく痛くなる。正座というより、立ち座りの繰り返しと、慣れない雪駄歩き…
ご門徒さまにも、喜んで迎えて頂けたり…
- とにかく歓待される
- (時間がないのに)お引き留めに会う
- 持ちきれない重さのお土産を頂く
- 拝まれる
- 高齢のご門徒さん「私の葬式はあなたに是非。」返答に困る(いつまで生きる気??)
- 寝たきりの方と握手したら泣き出されて、悪い事したか?と焦る
はたまた…
- 犬に追いかけられる
- 留守宅の猫にお衣を破かれる
- 蜂に追いかけられる(黒いから?)
- 迷子になる
- よそのご門徒さん宅に間違ってお参りする
- 参るべきお宅に参りそびれる
- 時間内に参れず真っ暗になる
- 毎年どの家でも「何年生?」と聞かれて面倒になる
- トイレを貸して下さいと言えずに悶える
- 白衣の裾が自転車のチェーンに絡まって転ぶ(起きられない)
- 酔っぱらいにからかわれる
- 何故かいきなり怒鳴られる
- 何故か文句言われて追い返される
あれ?いやな思い出ばっかり?
ある程度になると、地図を片手に学区と全然違うところも参っていたので、大冒険だったのは確かだ。
携帯は無いし、地図上の名前と、門徒名簿の名前と、表札の名前違うとかよくあるし。ただし、今より気温は低かった。
なんだかんだで、いろんなご門徒さんらが姿をもっていろいろな人生を見せて下さった。お寺に生まれ育ったということはそういうことなのだと思う。当時は戦争体験もよく聞かせて頂いた。仏教教義云々以前のいろんなことをこれで学んだ気がする。学校とは全然違うフィールド。
人生訓みたいなのも体験から学べる。同じ家、同じ人と長く縁があるから。おかしな話かもしれないが、「お坊さんに悪態をつく人の人生は異常に苦難が多い…」とか。苦難が多いからそうなのか、悪態つくからそうなのか…ではなくて、「他者が大事にしているものを大事に出来ない人」という括りだろうか。
人間そのものは大したことないのだが、ちびっ子でも若僧でも、お衣を着させてもらっているということは、少なくとも誰かがその人を「お坊さん」として敬って下さっているということと言える(基本的にお衣は寄進であって、自分で買って着るものではないから)。それを蔑ろにするということは、その大事にしている人々の想いを踏みにじることに他ならない…とか、小さいながらに考えたものだ…。決して仏罰とかではないと思っているあたり、さすが真宗門徒のお育て。
息子、まずは参るので精一杯だろうけれども、いろいろ体験して考えて欲しい。ご門徒さんがそれを許してくれているし、求めても頂いていると思う。
真宗は宗祖以降、本願寺のみならず、基本的にずっと世襲で続いてきたお寺が多い。善し悪しはあるけれど、善しの部分の一つがこれだと思う。田舎坊主として有り難く思うことでもある。「小さい頃から知ってる人のお葬式に立つことができる。」これは大都市では難しい。逆もまた、「小さい頃からを知っている坊さんが自分の葬式をあげる。」理屈ではなくて、なかなかいいことだなと最近思う。
僕を連れてお盆参りしてくれた父や祖母も、こういう風に思っていたかな?と思うと喜ばしい。(注:どちらも健在!)