Category: 日記

誕生日お祝いのメッセージありがとうございます

おかげさまで、今年も誕生日を迎えることが出来ました。

今年は本当にさまざまなメディアでお祝いのメッセージを頂き、本当にありがとうございます。

メッセージ個別にご返信ができませんので、この場にて御礼申し上げます。

 

mixi やFacebook の誕生日通知機能、有り難いやら、ちょっと恐ろしいやら(笑)

メッセージ頂いたみなさまのお誕生日を見落としてスルーしてしまう可能性が大ですが…どうぞお許しを。

 

お誕生日を盛大に祝う習慣の無い家で育ちましたので、祝うのも祝われるのも実は苦手です。

うちは、それぞれの誕生日には家族みんなでお参りをしていました(これは今も)。

ケーキはたぶん子どもの誕生日の時はあったけど大人の時は無かったのかも。今は、(僕の子ども達がケーキを食べたいがために祖母の時までケーキが準備されますが…。)

そのお参りの度に、父、住職が僕らに言っていた言葉(引用)。

「諸人よ 覚え知れかし 己が身の 誕生の日は 母苦難の日」
(もろびとよ おぼえしれかし おのがみの たんじょうのひは ははくなんのひ)

ちょっと、耳で覚えているので原典がどなただか知らず、調べても居ません、すみません。(ご存知の方、教えて下さい…)

言われてみればその通り、また、頭では分かっているものの普段はなかなか。

欧米風の Happy Birthday を形だけ真似た今の日本のやり方だと、生まれてきてオメデトウだけが強調されているように思えます。

私も、たくさんのお祝いのお気持ちを頂き、嬉しく思う反面、誰からも祝われないとすると、誕生日ほど悲しい日は無いようにも思えてしまいます…。

が、本来、誕生を祝うというのは、この世界に生まれ出た縁を喜ぶもので、生まれた本人だけがケーキとプレゼントで祝われるというものでも無いのでしょう。

生まれ出でることは本当に難しく、また、生きる、生き続けるということも本当に大変難しいこと。

そのことを良く知る先輩方が、それぞれの誕生日に「そのことに気付いてくれよ」と願いを託した行事なんでしょうね。

数え年で、お正月にみんなで歳をとっていた日本には、個人の誕生日そのものをお祝いする習慣があまり見あたりません。これはこれで非常に深い意味があるように思えました。

今、思春期支援や、性、セクシャリティの分野に関わるようになり、改めて思います。

望まない妊娠

人工妊娠中絶

望むのに妊娠できない

生まれた子供を棄てる、殺す

生まれた子が命を絶つ

善し悪しではなく、ご縁なのですが、今ここにいのちを頂いて「生きている」ということが、本当に簡単ではないということを強く感じます。

以前、高校でいのちの授業に携わり、「生まれてきたこと、今生きていることは素晴らしいこと」という表現を使ったときに、感想文で「母は私が生まれてきたことを喜んではいません」と綴った生徒さんがいました。

この方の母親を責めることはできませんが、伝え損なったと反省しました。

「素晴らしい」かどうかはその人の感じ方ですが、

「生まれてきたこと、今生きていること」が「非常に難しく希有なことで、尊いことである」のは

どのような境遇にある人にも言えることのはず。

そんなこんな、いろいろ考えながら、

「諸人よ 覚え知れかし 己が身の 誕生の日は 母苦難の日」

という歌、これは、文面だけでは全然足りない、これを知り、気付いたならば、もっともっと多くのいのちと多くのご縁の中に今私が生きているということに感謝しないといけないなぁと思います。

母だけ、父母だけの縁で私が生まれてきたわけではなく、今まで命を長らえてきたわけでもない。

もっともっと長い長い繋がりと縁の中にあり、そしてこの縁は、自分が子どもを授かるか否かに関わらず、ずっとずっと縁として繋がっていく、後の世界に影響を与えていくいのちなのだとみんなが気付いて、お礼申しながら生ける世の中になれば何よりです。

 

母苦難の日、私の誕生日は、台風直撃の日。帰省中の母の実家のお寺は瓦が飛んだそうな。

母は私が中学1年の時に往生しましたので、母と過ごした誕生日というのは十数回しかありません。

直接、きちんとお礼を言った覚えがあまりなく…母親と関わるのが恥ずかしい年頃でもあったので

そのことへの後悔もありますが、「必ずみんなを仏さまに為さずにはおけない」という阿弥陀仏

の願いの中にあればこそ、母もまた仏として私と共にある…。私を産んだ母へのお礼も、また、

母が仏として伝えてくれるもっと多くのご縁への感謝も、「なもあみだぶつ」のお念仏の中に。

 

ということで、今年も誕生日をお念仏と共に迎え、過ごせたこと、大変有り難く思います。

お祝いのメッセージを下さった方も、そうでない方もどうぞ、それぞれの今ある命がそれだけで

尊いといういわれを慶び、精一杯今をご一緒しましょう。

ありがとうございます。

南無阿弥陀仏

 

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「生と性を考える」番外編 中高生「思いやりスクール」(JC伊万里主催)

明善寺(佐賀県伊万里市 浄土真宗本願寺派)を宿泊場所として開催されている「思いやりスクール」(主催 伊万里青年会議所)にて、「生と性を考える」授業の番外編を行いました。(しまった。写真がありません…。)

中学生、お風呂上がりに、1時間。

私の確認不足とご依頼頂いた明善寺さんの連絡不足で、テーマを僕は当日知るわけですが…。そこは明善寺さん、僕がやろうとしていることと会のテーマが合致しているからこそのご依頼。無問題です(笑)

神埼中学校での授業、AIDS文化フォーラムin横浜での模擬授業を通し、迷いのあった内容がすっきりしつつありましたが、今回は、中学生(1〜3年男女)10名ほど。学校の教室ではなく、お寺の仏間(畳敷きの広間に低机)というスタイルから、身近に問答しながら…いろいろ話してしまって広がりすぎました…。

「いのち」の捉え方に関して、想像力を持って欲しいこと、性の事、特にパートナーとのことに関しては、「相互尊重」が基本であること(即ち「おもいやり」)が伝わればいいなぁと思っています。

中学生時代というのは、何の為に学校に?何の為に大人に?何の為に生きるの? など、いろいろ考える時期です。解決しないのに大人になると考えなくなりがちですが、思春期にはガッツリ考えて欲しいテーマです。答えなんか出なくてもいい。解らなくてもいい。考えることそのものが答えであるし、試験と違って、明確な正解の無い中を歩むのが「生きる」ということ…。

など、直接言葉にしていませんが、そういうことまで含めて想像してもらえれば幸いです。

ただ、やはり、この手のテーマは、「学校では指導しにくい」とよく言われるものの、任意の集まりではもっとやりにくい。お寺でも、保護者のコンセンサスを得ていないため、子ども会では難しく、青年会レベルで初めて実施できるくらい。でも、それだと遅すぎる。

学校現場、可能であれば小学校中学年くらいから取り組むのが良さそうだと思います。

その辺りを考えると、佐賀県の多久東部中学校から始まった、小中連携の「性と死の準備教育」(いのちの授業/Death Education:佐賀のホスピスを進める会が実施)は、その中に、ピアカウンセリング(同世代指導)による性の授業が含まれていることから、非常に有意義な取り組みだと改めて感じます。会員である団体の活動なので自画自賛的ですが、これも、学校側の力の入れ方次第ですので…。

「おもいやりスクール2011」を主催されました
伊万里青年会議所(JC伊万里) http://chiikinotakara.sagafan.jp/

多久東部中をはじめ、県内の中学校での「性と死の準備教育」などを実施
佐賀のホスピスを進める会 http://areahot.jp/saga/hospice/index.html

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子ども会スタッフ派遣にて牛津へ

教区少年連盟へのスタッフ派遣のご依頼を受け、常光寺 仏教子ども会一泊サマーキャンプ(佐賀県小城市 芦刈)にてお手伝い。

昨日からの一泊二日。悪天候は今朝にはおさまり、元気に二日目のプログラム。

地元芦刈のみならず、川副や多久など、いろいろな学区からの参加。みんな、さすが、打ち解けるのも早い。

教区少年連盟のサポーターによるスタッフ出向、この時期、各組、各お寺でも子ども会が重なるため、スタッフの人数不足も深刻…

写真などは佐賀教区少年連盟/キッズサンガのサイトをご覧ください!
http://kids-sangha.jp

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お寺で一泊子ども会

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お盆の記事も書けぬままですが…

松浦組(まつうらそ:組は、真宗寺院の地域単位)主催の一泊子ども会です。

夏休み、組内で会場回しにて開催。今年で45年目の取り組みです。

今回は、有田町(有田焼の有田!)の西光寺にて。伊万里市の小学校は明日が登校日で、参加が殆どありませんが、有田を中心に30名の小学生が参加です。

これから川遊びや、焼き物絵付け、花火やキャンドルサービスでお寺を満喫します。もちろん、お参りも、仏典童話、『パンタカ兄弟』を題材に、子ども話し合い法座…など、まったりですが内容濃い一泊二日の予定です。

お御堂、お寺で夏の雑魚寝体験…なかなかいいと思いません?

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息子と参るお盆、記憶にある幼少期の盆

本堂前、息子と合掌して出発

本堂前にて合掌 出発!

8月に入り、平日に遠方のお盆をお参り。本日より、ご近所での本格的お盆参りに突入。

我が家、我が寺?のしきたり、「1年生からお盆参りを手伝う」に則り、昨年、近場のお盆経デビューを果たした息子。

2年生になったので、昨年は1日だけだったお参りを少しずつ増やす。一人だけでお参りするのは3年生からにしようと思っているので、今年までは私の担当エリアで、毎日最初の10件くらいを一緒に参る。今朝は歩いて回れる地区なので、本堂前にてご本尊と親鸞さまの像に合掌して出発。

僕自身もいろいろな思い出がある、幼少期の盆。

足はとにかく痛くなる。正座というより、立ち座りの繰り返しと、慣れない雪駄歩き…

ご門徒さまにも、喜んで迎えて頂けたり…

  • とにかく歓待される
  • (時間がないのに)お引き留めに会う
  • 持ちきれない重さのお土産を頂く
  • 拝まれる
  • 高齢のご門徒さん「私の葬式はあなたに是非。」返答に困る(いつまで生きる気??)
  • 寝たきりの方と握手したら泣き出されて、悪い事したか?と焦る

はたまた…

  • 犬に追いかけられる
  • 留守宅の猫にお衣を破かれる
  • 蜂に追いかけられる(黒いから?)
  • 迷子になる
  • よそのご門徒さん宅に間違ってお参りする
  • 参るべきお宅に参りそびれる
  • 時間内に参れず真っ暗になる
  • 毎年どの家でも「何年生?」と聞かれて面倒になる
  • トイレを貸して下さいと言えずに悶える
  • 白衣の裾が自転車のチェーンに絡まって転ぶ(起きられない)
  • 酔っぱらいにからかわれる
  • 何故かいきなり怒鳴られる
  • 何故か文句言われて追い返される

あれ?いやな思い出ばっかり?

ある程度になると、地図を片手に学区と全然違うところも参っていたので、大冒険だったのは確かだ。
携帯は無いし、地図上の名前と、門徒名簿の名前と、表札の名前違うとかよくあるし。ただし、今より気温は低かった。

なんだかんだで、いろんなご門徒さんらが姿をもっていろいろな人生を見せて下さった。お寺に生まれ育ったということはそういうことなのだと思う。当時は戦争体験もよく聞かせて頂いた。仏教教義云々以前のいろんなことをこれで学んだ気がする。学校とは全然違うフィールド。

人生訓みたいなのも体験から学べる。同じ家、同じ人と長く縁があるから。おかしな話かもしれないが、「お坊さんに悪態をつく人の人生は異常に苦難が多い…」とか。苦難が多いからそうなのか、悪態つくからそうなのか…ではなくて、「他者が大事にしているものを大事に出来ない人」という括りだろうか。

人間そのものは大したことないのだが、ちびっ子でも若僧でも、お衣を着させてもらっているということは、少なくとも誰かがその人を「お坊さん」として敬って下さっているということと言える(基本的にお衣は寄進であって、自分で買って着るものではないから)。それを蔑ろにするということは、その大事にしている人々の想いを踏みにじることに他ならない…とか、小さいながらに考えたものだ…。決して仏罰とかではないと思っているあたり、さすが真宗門徒のお育て。

息子、まずは参るので精一杯だろうけれども、いろいろ体験して考えて欲しい。ご門徒さんがそれを許してくれているし、求めても頂いていると思う。

真宗は宗祖以降、本願寺のみならず、基本的にずっと世襲で続いてきたお寺が多い。善し悪しはあるけれど、善しの部分の一つがこれだと思う。田舎坊主として有り難く思うことでもある。「小さい頃から知ってる人のお葬式に立つことができる。」これは大都市では難しい。逆もまた、「小さい頃からを知っている坊さんが自分の葬式をあげる。」理屈ではなくて、なかなかいいことだなと最近思う。

僕を連れてお盆参りしてくれた父や祖母も、こういう風に思っていたかな?と思うと喜ばしい。(注:どちらも健在!)

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“Thousand Tweet” AIDS文化フォーラム

既に、地元にてお盆参りに勤しみつつ、AIDS文化フォーラムのレポート続編。

「お坊さんによる性教育授業」「宗教とエイズPart6」に引き続き、桜屋 伝衛門さん(私のAIDS文化フォーラム仲間 Twitter @den_emon)主催の「Thousand Tweet」にお手伝い参加。

AIDS文化フォーラムin横浜、毎年少しずつ全体のカラー、中身は変化しているものの、プログラムの見た目上、大きな変化や新規参入者が少ない中、この、Twitter上でつぶやかれるHIV/AIDS やセクシャルマイノリティーについての当事者や周囲・一般からの「つぶやき」を朗読というのは、なかなかタイムリーで、本質をあぶり出す企画だった。

詩や手記の朗読は以前からあちこちで開催されているが、ぼそぼそっと呟く本音の140文字にはなかなかにインパクトが。
私も、(チョイスが偏ってしまったが)順次朗読の担当をしていたため、純粋に他の朗読を聴けていなかった面はあるものの、当事者のつぶやき、周囲の完全なる誤解、いろいろ考えさせられた。

朗読の時間は2回。前半の朗読終了後に、インタビュートークの時間。今回は特に、トランスジェンダーに関わる人、当事者を順に迎え、伝衛門さんのとの対談形式で進む。なるほど、知識として理解していなかったこともあるし、知ってるつもりで当事者の感覚がわかっていなかったことも…。FTM(Female to Male)やMTF(Male to Female)のみならず、FTX、MTX(X=MやFなどはっきり二分しない領域)など…それぞれ個性であって分類することの難しさや、その必要性などなど…うーん。

お姉系がネタになっているテレビ社会の現状と裏腹に、性や性差、性指向とは何か?普通って何?「男」か「女」か明確に分類する必要性って何だろう?を改めて考えるご縁だった。

3名のインタビューの後、後半の朗読。
…なんか、伝衛門さんの狙い通りに、私自身も、前半とは印象が違って聞こえる…。なんだろう。当事者の思いを知り得たから?

人間は差別・偏見を根本的に持ち合わせている生き物であり、自己中心でしか物が見えないため、それらを「無くす」ことはできない。
なので、「私は差別も偏見もありません」というのは大間違い。大嘘で、悪気が無ければなおさら危険。

偏見でしかものが見えない私だからこそ、出来る限り相手の立場からの目線を…と心がける以上のことは出来ない。
開き直りとは違う。考え続けること、心を配り続けること…。

言うは易く行うは難しなのだが、一番、無意識に近い感じでできるのは、やはり、あらゆる立場の友達、知り合いを作ることなのかもしれないと改めて感じた。HIVやセクシャルマイノリティーだけではない。人種や国籍だってそうだし、なんだってそう。

いろいろな所で、差別発言を何とも思わず繰り返す人に出くわすことがある。
腹立たしいを通り越してしまうこともあるが、安直ながら、「友達の幅が狭いんだろうな…」ということなのかもしれない。

企画の最中から、本当にいろいろなことが頭を巡り、「静かに進む、刺激的な企画」だったと思う。
(僕は一見、集中していない風に映ったかも…。)

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宗教とエイズ Part6 AIDS文化フォーラム

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AIDS文化フォーラム in 横浜にて、「宗教とエイズ」という、トークセッションに登壇。今年で6回目を迎えるこのセッション。コーディネーター岩室紳也先生(HIV/AIDS診療医、泌尿器科)とのご縁で、私だけは6回目の登壇…(そろそろみんな飽きてないかい??)

毎回いろいろな宗派の宗教者、信仰を持つ者がHIV/AIDSとの関わりを縁として、それぞれの信仰の中での性、HIV/AIDS、性感染症、避妊、中絶、コンドーム…などなど、明文化されていない内容、普段なかなか聞かないことを話す。

もちろん、それぞれ宗派を背負うわけにはいかず、個人個人の体験と思いを。

これまで、キリスト教(カトリック、プロテスタント)、仏教(真言宗、曹洞宗と浄土真宗)の組み合わせだったが、今年初めてイスラームからの登壇があり、個人的にもとても勉強になった。大学の講義で学ぶのと、実際に信仰者とお話しするのとでは、感覚が全く違う。まして、過激派ばかりが報道されるイスラームの日本人ムスリム(イスラム信仰者)とのご縁はとても刺激的だった。

毎回のことだが、宗派の違いよりも、それぞれの個性の違いが面白い。

他派の皆様、今年の登壇はまた格別、絶妙の面白さがあったように思う。ぼくも個性を出せているだろうか?…と、その前に、もっと勉強しなくてはいけないことがまだまだ山積みであると再認識。

このセッションは、本当にAIDS文化フォーラムならではのものと思う。AIDS学会で研究者さん相手に行うのとは全然違う。

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お坊さんによる性教育授業 AIDS文化フォーラム

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開催中のAIDS文化フォーラムin横浜にて「お坊さんによる性教育 中学校編」と題し、模擬授業を実施。

来場者には中学生(の気分)になりきってもらい、学校での授業をそのまま再現しようと思っていたものの、実際やってみると、反応の違いというか、ライブ感?の違いでそのまんま再現にはならず…

生と性と死をバラバラにしない…

一口に性教育とはいえ、分野も立場も幅広く、限られた時間枠の中で、自分のスタンス全てをうまく表現することは非常に難しい。
これ(性教育)も、講演が単独であれ、組み合わせによるチームプレイなのだと再認識。

自分自身で迷っていた表現方法…二次性徴の個人差や性指向、セクシャルマイノリティについての表現など…、ご来場頂いたみなさまからのアドバイスにより、具体的に改善の方向性が見出すことができた。

同じ時間帯の別セッションと比較すると注目度は高くないと思い、知り合い数名での進行かと心配したが、30人教室とはいえ定員いっぱいのご来場を賜ることができた。有難いことと感謝するとともに、途中からで入れなかった方がもしいらっしゃれば誠に申し訳なく思う。

性を「生きる」視点から捉えるのは最近の性教育現場の主流となりつつあるが、その「生きる」ことを「死にゆく」ことと並列に語れるのは、ある種宗教者の役割のように思う。

きれいごとではなく、思春期支援や性教育の現場と信頼関係を保てる宗教者の広がりができればなぁ。

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