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9月 30 2011
いよいよ明日!「ほとけの子の集い」(本願寺佐賀教堂)
明日、10月1日(土) キッズサンガ ほとけの子の集い を開催します。
本願寺佐賀教堂・若楠幼稚園にて (佐賀市城内1丁目2番2号 佐賀県庁、議会棟西隣)
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入場無料・雨天決行 どなたでもお気軽にご参加下さい。大人も子どももお一人様もお誘い合わせでも…
11時〜 フリーマーケット (出店料を東日本大震災の復興支援金に)
13:00〜 ほとけの子の集い
礼拝パレード
ゲームコーナー、わたがし・かき氷(子ども無料)
ステージイベント各種…
子ども雅楽(西有田・法泉寺子ども会)
大道芸(ワンマンバンド・フーミン)
落語(笑っ亭 風太郎)
オカリナ(ビハーラ佐賀)
フラダンス(ビハーラ佐賀)
大型絵本で読み聞かせ(ビハーラ佐賀)
二胡(みやき町善法寺住職)
みんなで踊ろう(仏教婦人会)
バンド 小ライブ (ベレーボウズ:若手僧侶バンド(松浦組)*僕もb , key で出る…)
本願寺佐賀会館の中でも、お抹茶(どなたでもお気軽に参加できるお茶席)、落語をお楽しみください。
詳しくは、「キッズサンガ・佐賀」のホームページをご覧下さい。
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9月 14 2011
誕生日お祝いのメッセージありがとうございます
おかげさまで、今年も誕生日を迎えることが出来ました。
今年は本当にさまざまなメディアでお祝いのメッセージを頂き、本当にありがとうございます。
メッセージ個別にご返信ができませんので、この場にて御礼申し上げます。
mixi やFacebook の誕生日通知機能、有り難いやら、ちょっと恐ろしいやら(笑)
メッセージ頂いたみなさまのお誕生日を見落としてスルーしてしまう可能性が大ですが…どうぞお許しを。
お誕生日を盛大に祝う習慣の無い家で育ちましたので、祝うのも祝われるのも実は苦手です。
うちは、それぞれの誕生日には家族みんなでお参りをしていました(これは今も)。
ケーキはたぶん子どもの誕生日の時はあったけど大人の時は無かったのかも。今は、(僕の子ども達がケーキを食べたいがために祖母の時までケーキが準備されますが…。)
そのお参りの度に、父、住職が僕らに言っていた言葉(引用)。
「諸人よ 覚え知れかし 己が身の 誕生の日は 母苦難の日」
(もろびとよ おぼえしれかし おのがみの たんじょうのひは ははくなんのひ)
ちょっと、耳で覚えているので原典がどなただか知らず、調べても居ません、すみません。(ご存知の方、教えて下さい…)
言われてみればその通り、また、頭では分かっているものの普段はなかなか。
欧米風の Happy Birthday を形だけ真似た今の日本のやり方だと、生まれてきてオメデトウだけが強調されているように思えます。
私も、たくさんのお祝いのお気持ちを頂き、嬉しく思う反面、誰からも祝われないとすると、誕生日ほど悲しい日は無いようにも思えてしまいます…。
が、本来、誕生を祝うというのは、この世界に生まれ出た縁を喜ぶもので、生まれた本人だけがケーキとプレゼントで祝われるというものでも無いのでしょう。
生まれ出でることは本当に難しく、また、生きる、生き続けるということも本当に大変難しいこと。
そのことを良く知る先輩方が、それぞれの誕生日に「そのことに気付いてくれよ」と願いを託した行事なんでしょうね。
数え年で、お正月にみんなで歳をとっていた日本には、個人の誕生日そのものをお祝いする習慣があまり見あたりません。これはこれで非常に深い意味があるように思えました。
今、思春期支援や、性、セクシャリティの分野に関わるようになり、改めて思います。
望まない妊娠
人工妊娠中絶
望むのに妊娠できない
生まれた子供を棄てる、殺す
生まれた子が命を絶つ
善し悪しではなく、ご縁なのですが、今ここにいのちを頂いて「生きている」ということが、本当に簡単ではないということを強く感じます。
以前、高校でいのちの授業に携わり、「生まれてきたこと、今生きていることは素晴らしいこと」という表現を使ったときに、感想文で「母は私が生まれてきたことを喜んではいません」と綴った生徒さんがいました。
この方の母親を責めることはできませんが、伝え損なったと反省しました。
「素晴らしい」かどうかはその人の感じ方ですが、
「生まれてきたこと、今生きていること」が「非常に難しく希有なことで、尊いことである」のは
どのような境遇にある人にも言えることのはず。
そんなこんな、いろいろ考えながら、
「諸人よ 覚え知れかし 己が身の 誕生の日は 母苦難の日」
という歌、これは、文面だけでは全然足りない、これを知り、気付いたならば、もっともっと多くのいのちと多くのご縁の中に今私が生きているということに感謝しないといけないなぁと思います。
母だけ、父母だけの縁で私が生まれてきたわけではなく、今まで命を長らえてきたわけでもない。
もっともっと長い長い繋がりと縁の中にあり、そしてこの縁は、自分が子どもを授かるか否かに関わらず、ずっとずっと縁として繋がっていく、後の世界に影響を与えていくいのちなのだとみんなが気付いて、お礼申しながら生ける世の中になれば何よりです。
母苦難の日、私の誕生日は、台風直撃の日。帰省中の母の実家のお寺は瓦が飛んだそうな。
母は私が中学1年の時に往生しましたので、母と過ごした誕生日というのは十数回しかありません。
直接、きちんとお礼を言った覚えがあまりなく…母親と関わるのが恥ずかしい年頃でもあったので
そのことへの後悔もありますが、「必ずみんなを仏さまに為さずにはおけない」という阿弥陀仏
の願いの中にあればこそ、母もまた仏として私と共にある…。私を産んだ母へのお礼も、また、
母が仏として伝えてくれるもっと多くのご縁への感謝も、「なもあみだぶつ」のお念仏の中に。
ということで、今年も誕生日をお念仏と共に迎え、過ごせたこと、大変有り難く思います。
お祝いのメッセージを下さった方も、そうでない方もどうぞ、それぞれの今ある命がそれだけで
尊いといういわれを慶び、精一杯今をご一緒しましょう。
ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
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9月 08 2011
ほとけの子の集い フリマ出店募集中!
浄土真宗本願寺派、佐賀教区では、キッズサンガの一環として、「ほとけの子の集い2011」を企画しています。
というか、教区少年連盟が実働の中心で、実行委員長を仰せつかっております。是非みなさま、ご参加、ご協力を…。
2011年10月1日(土)
本願寺佐賀教堂にて(佐賀市城内一丁目 県庁議事堂西隣 若楠幼稚園併設)
雨天決行 参加無料 子どもさんのみならず、2世代3世代…どなたでもご自由に
チャリティーフリーマーケット 11:00〜17:00
(出店料1区画500円を震災復興支援金として募金します)
ほとけの子の集い2011 13:00〜17:00
ステージイベント、みんなで礼拝、手作りゲームコーナー、わたがし、かき氷etc…
メイン会場(ステージ、フリマなど)は本願寺佐賀教堂駐車場を予定しておりますが、教堂の本堂、仏間でも…誰でも参加できる落語会やお茶席を企画されています(別企画ですが同時開催)
で、フリーマーケットの出店者を募集中です。既にお申し込みを頂いておりますが、まだ枠があります。
先着順ですが、ご興味のある方は是非お申し込みを!それ以外のかたは、是非、当日遊びに来て下さい!
フリーマーケットお申し込み
佐賀教区キッズサンガ/少年連盟のサイトにて要項ご確認の上、フォームよりお申し込み下さい。
http://kids-sangha.jp
よろしくおねがいいたします。
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8月 28 2011
「生と性を考える」番外編 中高生「思いやりスクール」(JC伊万里主催)
明善寺(佐賀県伊万里市 浄土真宗本願寺派)を宿泊場所として開催されている「思いやりスクール」(主催 伊万里青年会議所)にて、「生と性を考える」授業の番外編を行いました。(しまった。写真がありません…。)
中学生、お風呂上がりに、1時間。
私の確認不足とご依頼頂いた明善寺さんの連絡不足で、テーマを僕は当日知るわけですが…。そこは明善寺さん、僕がやろうとしていることと会のテーマが合致しているからこそのご依頼。無問題です(笑)
神埼中学校での授業、AIDS文化フォーラムin横浜での模擬授業を通し、迷いのあった内容がすっきりしつつありましたが、今回は、中学生(1〜3年男女)10名ほど。学校の教室ではなく、お寺の仏間(畳敷きの広間に低机)というスタイルから、身近に問答しながら…いろいろ話してしまって広がりすぎました…。
「いのち」の捉え方に関して、想像力を持って欲しいこと、性の事、特にパートナーとのことに関しては、「相互尊重」が基本であること(即ち「おもいやり」)が伝わればいいなぁと思っています。
中学生時代というのは、何の為に学校に?何の為に大人に?何の為に生きるの? など、いろいろ考える時期です。解決しないのに大人になると考えなくなりがちですが、思春期にはガッツリ考えて欲しいテーマです。答えなんか出なくてもいい。解らなくてもいい。考えることそのものが答えであるし、試験と違って、明確な正解の無い中を歩むのが「生きる」ということ…。
など、直接言葉にしていませんが、そういうことまで含めて想像してもらえれば幸いです。
ただ、やはり、この手のテーマは、「学校では指導しにくい」とよく言われるものの、任意の集まりではもっとやりにくい。お寺でも、保護者のコンセンサスを得ていないため、子ども会では難しく、青年会レベルで初めて実施できるくらい。でも、それだと遅すぎる。
学校現場、可能であれば小学校中学年くらいから取り組むのが良さそうだと思います。
その辺りを考えると、佐賀県の多久東部中学校から始まった、小中連携の「性と死の準備教育」(いのちの授業/Death Education:佐賀のホスピスを進める会が実施)は、その中に、ピアカウンセリング(同世代指導)による性の授業が含まれていることから、非常に有意義な取り組みだと改めて感じます。会員である団体の活動なので自画自賛的ですが、これも、学校側の力の入れ方次第ですので…。
「おもいやりスクール2011」を主催されました
伊万里青年会議所(JC伊万里) http://chiikinotakara.sagafan.jp/
多久東部中をはじめ、県内の中学校での「性と死の準備教育」などを実施
佐賀のホスピスを進める会 http://areahot.jp/saga/hospice/index.html
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8月 24 2011
子ども会スタッフ派遣にて牛津へ
教区少年連盟へのスタッフ派遣のご依頼を受け、常光寺 仏教子ども会一泊サマーキャンプ(佐賀県小城市 芦刈)にてお手伝い。
昨日からの一泊二日。悪天候は今朝にはおさまり、元気に二日目のプログラム。
地元芦刈のみならず、川副や多久など、いろいろな学区からの参加。みんな、さすが、打ち解けるのも早い。
教区少年連盟のサポーターによるスタッフ出向、この時期、各組、各お寺でも子ども会が重なるため、スタッフの人数不足も深刻…
写真などは佐賀教区少年連盟/キッズサンガのサイトをご覧ください!
http://kids-sangha.jp
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8月 20 2011
お寺で一泊子ども会
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8月 12 2011
打ち上げ:夜回り先生とガッチャーミー AIDS文化フォーラム
2011 AIDS文化フォーラム in横浜 の回想続き
6年目の関わりにして初めて、エンディングと「打ち上げ」に参加。
が、なんと、今年に限って都合で打ち上げが非ビアホール…orz(そんなに飲めないから関係ないとも言う)
運営委員、ボランティアスタッフなどの関係者の輪に入れてもらって居酒屋歓談。
いつもの如く、その日、ご講演を終えた夜回り先生、水谷修さんも。AIDS文化フォーラムin京都の主会場が、水谷先生所属の花園大学から、京都駅に近い龍谷大学大宮学舎になった辺り、ちょっと関わってしまったもので、一言ご挨拶をば…とお邪魔する。例によって、AIDS文化フォーラムin京都の開催地については…突っ込まれる。2回目。この方、近寄りがたい雰囲気がスゴイのだが、話しかけるといつも気さくに話して下さるナイスガイ(気さくすぎる)。
夜回り先生「おぉ?またお前か!真宗の坊さんだな?」
私(古川)「はい。先日は本願寺少年連盟50周年でのご講演、有り難うございました。」
<中略> フォーラムでも何度か顔を合わせていたし、6月にも本願寺でお会いしてはいたが、ついに顔を覚えられてしまった…
夜回り先生「真宗は終わってるぞ。ありゃいかん。親鸞を拝むだなんて、怒るぞぉ、親鸞。」(御遠忌と御影堂のことだと思う)
「前にも君に言ったが、親鸞は迷いが多すぎる。つられて迷ってしまう。ダメだ。俺は好きになれなかった。」
「君の教団は親鸞と似てもにつかない集まりになってる。本願寺がダメだ。よし、お前、一緒に火を放とう!」
「坊主は汗水して働いてお金を手にするわけではないんだからアレじゃいかん。」
「今度本願寺の山門くぐったら、四つん這いで額ずいて回れ!できないか!?大谷派では全部脱いで這った坊主がいてくれたぞ!」
私 「おっしゃることは、解ります…(部分的に)けども…親鸞さまが迷いを見つめたからこそ…」
夜回り先生 「よし!お前、改宗しろ。俺が紹介する。一番厳しい行を修めてから坊主を名乗れ。そうしよう!」
私 「は…、はぁ…」
<中略>
心情、想いを即興で劇にして上演する、プレイバッカーズ代表にも面と向かって持論を展開
夜回り先生 「お前らのやってることは危険すぎる!人の心の中を踏みにじる行為だ!それで飯を食うとは卑怯極まりない。今すぐ辞めてしまえ!」
「お前、自分の目が死んでいることに気付いてないわけじゃないんだろ?今すぐ解散しろ!」
<中略>
私 「そこは好き好きですし、あの再現劇で救われたと思う人も居るわけですから…」
*夜回りパワーにかき消される…
<中略> 再び僕が矢面に
夜回り先生 「おいっ!しかし、今からの時代はお前ら坊主の出番だぞ。心の時代だ!理屈を超越した体験が必要だ!」
「ちょっと、君、観音経をやれ!なに?なら、般若心経。なんだと?あ、真宗だったか。」
「あ!あれやってくれ。あれがいい。ガッチャーミーだ!やれるか? よし、命がけでやれ! え?今すぐだよ!」
私 「今!?は…はい。いや、居酒屋ですぜ。はい!命がけでですね!?」
夜回り先生 「よーし!みんな、静かに聞いてくれ!京都からせっかく高名な僧が来ている!みんなで礼拝するぞ。静かに!!」
私 「(さっきまでボロカス言ってたやん…。しかも、確かに横浜と京都でしか会わないけど、ぼく佐賀って言ったし)」
そう言うわけで、かながわ県民センター向かいのビルの地下。居酒屋奥の座敷にて「敬礼文(きょうらいもん)」「三帰依(三帰依)」を唱えることに…。
僕も酔ってたのと、勢いで、腹をくくる。 合掌…
私 ♪「ナーモタッサーバガヴァートォ〜 アラハートー サンマ サン ブッダー サー」(敬礼文)
♪「ブッダーン サラナーン ガッチャーミー」(以下、三帰依)
♪「ダンマーン サラナーン ガッチャーミー」
♪「サンガーン サラナーン ガッチャーミー」 <with 礼拝>
一同 きょとーん(笑)漢文の何かが出てくるならまだしも、意味不明なパーリー語…。しかも唄!
貸切ではないのに、その間、やたら店内が静かで…。
岩室紳也先生「怪しい集まりみたいじゃないか!(笑)」
夜回り先生 しばし独演会
…決して宴会芸として披露した訳ではないのだ。夜回り先生が(無茶振りだけど)マジだったのだ。
そして、さすが。真宗僧はダメダメだと今の今まで持論を展開しながらも、三帰依(ブッダンサラナンガッチャーミー以下)を合掌して一緒に唱えてくれた。ご存知なのだ。リクエストするくらいだし。(僕に向かって拝むのはまたどうか?)
事前に散々理屈を述べておき、実のところ、「理屈を超越するのは礼拝なんだよ!」と自ら示し、すがすがしく?去る。
押しが強すぎてハチャメチャで、全部を好きにはなれないけれども、愛すべき素直な人だなぁと感心。
礼拝の後は、ダメ坊主、ダメ真宗の話は決して出さない。一連のネタなのか?いや、最後に何かガツーンと来た感じ。
(夜回り先生、有り難うございます…)
で、その後も楽しく打ち上げは続き、夜回り先生早退、みんな終電ギリギリまで異動せずに居酒屋談義。なんだかんだ面白かった。
ものすごく深い話が目の前で展開されていく感じ…。
AIDS文化フォーラムのステキな思い出の一つとなりました。
___________
【宴席でも求められた、例のパーリー語礼拝の意味】
敬礼文(きょうらいもん)と三帰依(さんきえ)は多くの仏教国で共通の、仏教者の信仰告白。(メロディーはいろいろあるはず)
日本では聖徳太子が示された、「篤く三宝を敬え」の元となる、基本の礼拝。
敬礼文は、ブッダを敬い礼しますという挨拶
三帰依は、仏教徒として、仏・法・僧の三つ…
仏…悟りを開いた者、真理に目覚めた者。仏さま。
法…仏の教え
僧…僧伽(サンガ)。お坊さん…というよりも、仏法を喜び、信仰する者の集まりのこと。
これらを、宝として敬い、尊びながら生きていきます…という信仰告白。仏法僧は個々に捉えるのではなく、3つで「仏教」を指すほうが理解しやすいかもしれない。「仏教に信順し、仏教徒として生きます」とか。
_____________
いやいや、滅多にできない、貴重な敬礼文・三帰依だった。
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8月 12 2011
息子と参るお盆、記憶にある幼少期の盆
8月に入り、平日に遠方のお盆をお参り。本日より、ご近所での本格的お盆参りに突入。
我が家、我が寺?のしきたり、「1年生からお盆参りを手伝う」に則り、昨年、近場のお盆経デビューを果たした息子。
2年生になったので、昨年は1日だけだったお参りを少しずつ増やす。一人だけでお参りするのは3年生からにしようと思っているので、今年までは私の担当エリアで、毎日最初の10件くらいを一緒に参る。今朝は歩いて回れる地区なので、本堂前にてご本尊と親鸞さまの像に合掌して出発。
僕自身もいろいろな思い出がある、幼少期の盆。
足はとにかく痛くなる。正座というより、立ち座りの繰り返しと、慣れない雪駄歩き…
ご門徒さまにも、喜んで迎えて頂けたり…
- とにかく歓待される
- (時間がないのに)お引き留めに会う
- 持ちきれない重さのお土産を頂く
- 拝まれる
- 高齢のご門徒さん「私の葬式はあなたに是非。」返答に困る(いつまで生きる気??)
- 寝たきりの方と握手したら泣き出されて、悪い事したか?と焦る
はたまた…
- 犬に追いかけられる
- 留守宅の猫にお衣を破かれる
- 蜂に追いかけられる(黒いから?)
- 迷子になる
- よそのご門徒さん宅に間違ってお参りする
- 参るべきお宅に参りそびれる
- 時間内に参れず真っ暗になる
- 毎年どの家でも「何年生?」と聞かれて面倒になる
- トイレを貸して下さいと言えずに悶える
- 白衣の裾が自転車のチェーンに絡まって転ぶ(起きられない)
- 酔っぱらいにからかわれる
- 何故かいきなり怒鳴られる
- 何故か文句言われて追い返される
あれ?いやな思い出ばっかり?
ある程度になると、地図を片手に学区と全然違うところも参っていたので、大冒険だったのは確かだ。
携帯は無いし、地図上の名前と、門徒名簿の名前と、表札の名前違うとかよくあるし。ただし、今より気温は低かった。
なんだかんだで、いろんなご門徒さんらが姿をもっていろいろな人生を見せて下さった。お寺に生まれ育ったということはそういうことなのだと思う。当時は戦争体験もよく聞かせて頂いた。仏教教義云々以前のいろんなことをこれで学んだ気がする。学校とは全然違うフィールド。
人生訓みたいなのも体験から学べる。同じ家、同じ人と長く縁があるから。おかしな話かもしれないが、「お坊さんに悪態をつく人の人生は異常に苦難が多い…」とか。苦難が多いからそうなのか、悪態つくからそうなのか…ではなくて、「他者が大事にしているものを大事に出来ない人」という括りだろうか。
人間そのものは大したことないのだが、ちびっ子でも若僧でも、お衣を着させてもらっているということは、少なくとも誰かがその人を「お坊さん」として敬って下さっているということと言える(基本的にお衣は寄進であって、自分で買って着るものではないから)。それを蔑ろにするということは、その大事にしている人々の想いを踏みにじることに他ならない…とか、小さいながらに考えたものだ…。決して仏罰とかではないと思っているあたり、さすが真宗門徒のお育て。
息子、まずは参るので精一杯だろうけれども、いろいろ体験して考えて欲しい。ご門徒さんがそれを許してくれているし、求めても頂いていると思う。
真宗は宗祖以降、本願寺のみならず、基本的にずっと世襲で続いてきたお寺が多い。善し悪しはあるけれど、善しの部分の一つがこれだと思う。田舎坊主として有り難く思うことでもある。「小さい頃から知ってる人のお葬式に立つことができる。」これは大都市では難しい。逆もまた、「小さい頃からを知っている坊さんが自分の葬式をあげる。」理屈ではなくて、なかなかいいことだなと最近思う。
僕を連れてお盆参りしてくれた父や祖母も、こういう風に思っていたかな?と思うと喜ばしい。(注:どちらも健在!)
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